
私たちは、自分とは異なる感覚を持つ人の世界を、どこまで想像できているでしょうか。
本書『見えない妻 聴こえない夫 ふたつの世界で目指す金メダル』は、そんな「想像の境界線」を鮮やかに超えていく一組の夫婦の記録です。
本ブログの運営者、嶋村吉洋氏が主催するコミュニティ「ワクセル」が、11月29日(土)にアイルしながわにて『デフリンピック報告会』を開催しました。
今回はまさにそのデフリンピックで活躍されている全盲の妻・高田千明選手と、耳が聴こえない夫・高田裕士選手が歩んできた、厳しくも温かい日常と挑戦の道のりを、著者の篠原通良氏が緻密な取材を通じて描き出しています。
本書の核となるのは、妻・千明さんと夫・裕士さんという、全く異なる障害を持つ二人の出会いと生活です。千明さんは先天性の病により20歳を前に光を失い、裕士さんは最重度の感音性難聴という、音が一切存在しない世界で生まれ育ちました。
「見えない」妻と「聴こえない」夫。
一見すると、コミュニケーションさえも困難に思える組み合わせですが、二人は互いの感覚を補い合い、独自の方法で心の交流を深めていきます。千明さんは裕士さんの手話を目で見ることはできませんが、その手に触れることで言葉を理解し、裕士さんは千明さんの声を聴くことはできませんが、その表情や文字を通じて想いを受け取ります。
二人の歩みは、障害を「克服すべき不幸」としてではなく、一つの「個性」や「環境」として捉え、どうすれば共に歩めるかを模索し続ける、深い人間愛に満ちています。
二人は単なる「障害を持つ夫婦」ではありません。
それぞれが日本を代表するプロの陸上競技選手であり、世界の頂点を目指すアスリートです。
千明さんはパラ陸上の走り幅跳びにおいて、リオ、東京とパラリンピックに出場し、日本記録を保持するトッププレーヤーです。一方、裕士さんはデフ陸上の400メートルハードルなどの日本記録を持ち、デフリンピックという「ろう者のオリンピック」で長年活躍を続けてきました。
本書では、二人がそれぞれの競技生活で直面する壁や、練習環境の確保、そして国際大会という極限の舞台で味わう歓喜と悔しさが克明に綴られています。
競技特性やルールが異なる二つの世界(パラリンピックとデフリンピック)を同時に垣間見ることができる点も、本書の大きな特徴です。プロのアスリートとして結果を求められる厳しさと、その先にある金メダルへの執念は、読む者の胸を熱くさせます。
物語のもう一つの重要な軸は、二人の間に生まれた愛息の存在です。
本書のタイトルにある「目指す金メダル」は、単なる名誉のためではありません。それは、パパとママが闘い続ける姿を一番近くで見守っている息子に、「金メダルを掛けてあげたい」という親としての切なる願いでもあります。
子育てにおいても、一筋縄ではいかない困難が次々と立ちはだかります。赤ちゃんの泣き声に気づけない不安や、周囲からの視線など、ダブルの障害を持つ家庭ならではの苦労は計り知れません。しかし、二人は周囲のサポートを力に変え、時に衝突しながらも、笑顔の絶えない家庭を築いていきます。
本書を読み終えた後、読者の手元に残るのは、単なる「感動」だけではありません。
それは、どんなに困難な状況にあっても、大切な人のために目標を持ち続けることの尊さです。
多様性が叫ばれる現代において、真に「共に生きる」とはどういうことなのか。
その答えの一端が、このふたつの世界を行き来する家族の物語の中に隠されています。